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野菊の墓

野菊の墓

野菊の墓  伊藤左千夫

新潮文庫

この図書紹介では野菊についての植物学的薀蓄(うんちく)や小説の文学論については語りません。これまで言及されたことのない、『野菊の墓』の隠されたテーマに着目します。
  伊藤左千夫の小説『野菊の墓』は日本で初めて書かれた、見えるものをありのままに書くという自然主義小説として文学史上有名です。昭和のころまでは高校生なら誰もが一度は読んだことのある青春小説でした。しかし、最近では、高校の文学史で名前を聞く程度で実際に読んだ生徒はほとんどいないでしょう。今回、理科系の女子大学院生に読んでもらい感想を聞く機会がありました。多少予想していたことではありましたが、同じ小説でも世代が変わるごとに、受け取るメッセージが大きく変貌してゆくことを思い知らされました。『明治は遠くなりにけり』ではなく、既に『明治は歴史の彼方』なのです。


『野菊の墓』の舞台背景

  物語の舞台は明治30年ころの千葉県松戸市矢切から市川市国府台(こうのだい)にかけての農村です。小説には年代が明記されていませんが、道路と鉄道に関する記述から推定できます。明治になっても松戸と市川を結ぶ道路は、人力車一台が通れるほどの道しかありませんでした。ここに広い道路が建設されるのは明治20年以降、国府台が陸軍の駐屯地になってからのことです。現在、市川から国府台の丘に登る広くてなだらかな道路はその時に開削され、それ以前は狭く急な坂を上らねばなりませんでした。小説を読んでも、その先の国府台から松戸まで、一気に建設されたことはうかがえません。当時、矢切から市川に出るためには、もっぱら江戸川を上り下りする舟運が利用されていたようです。
   矢切の渡しは江戸時代、江戸川両岸に田畑を持つ農民が耕作のために、わざわざ関所を通らなくてもよいようにと特別に認められた渡しでした。その矢切の渡し場は対岸の柴又に渡るだけでなく、上流の松戸、下流の市川を上下する舟便にも利用されていました。『野菊の墓』での「矢切の渡し」は市川に下るための舟着き場として登場します。
   政夫は市川から千葉市にあった千葉中学に進学しますが、市川から千葉へは総武鉄道を利用します。この鉄道は明治27年の開業ですから、『野菊の墓』の時代は日本が江戸時代の農村社会から近代社会に大きく変わろうとする明治中期であったことがわかります。


現代の一女子学生による『野菊の墓』の「あらすじと感想」

『主人公の斎藤政夫は15歳(満13.5歳)の少年で、松戸市の矢切に住んでいました。その政夫の家に家事手伝いに、市川にある政夫の母の実家から来ていたのが17歳(満15歳)になる従姉の戸村民子です。幼いころから仲良しの遊び相手であった政夫と民子でしたが、ふと相手が異性であることを意識するようになります。周囲はそれとなく二人を遠ざけようとしますが、ある日、家の人手が足りず、収穫の時期が迫っていた綿の収穫が政夫と民子に任されます。これまで思いは募っても愛を伝え合うことなど、できなかった二人でしたが、その綿摘みの道中に「民さんは野菊のような人だ」「僕(野菊が)大好きさ」、「わたし急にりんどうが好きになった」「政夫さんはりんどうのような人だ」という言葉を交わします。綿摘みの一日は二人きりの夢のような一日でしたが、帰りが遅くなってしまったため、周囲の人々は二人の間に何かあったのではないかと疑いをかけます。そのことをきっかけに政夫は千葉の中学へ進学し、民子は無理やり嫁がされることとなりました。
   それから数年後、電報を受けとり帰省した政夫は、民子が流産が原因で死んでしまったことを知ります。そして民子が、政夫の手紙と写真が入った包みを握った手を胸の上に乗せて死を迎えたことを告げられます。政夫は七日の間、民子の墓に通い、そのまわりを白い野菊で埋めつくします。そして『そのあくる日に僕は…、決然学校へ出た』と民子への思いを断ち切るのです。
  現代の感覚だと少し感情移入することが難しいかもしれませんが、当時の時代背景や世相を感じとることができます。哀しいですが、とても初々しく美しい物語です。


野菊 リンドウ


『野菊の墓』に秘められた、”種(しゅ)は個体に優先する”という遺伝子の叫び


  この作品で、作者伊藤左千夫が伝えたかったテーマは何でしょうか。率直に言って、現在の若者たちには、伊藤左千夫が伝えたかった、「どうしようもなく深い哀しみ」は想像すらできないでしょう。かくいう筆者も、それほど切実には感じられないのですが、親の世代、具体的には大正生まれ以前の日本人には、とても切なる共感があったことを聞かされています。
   野菊の墓の隠されたテーマは、はっきり言えば近親婚である『いとこ婚』の問題です。作者はこの問題をあからさまにしていませんが、古い世代には言わずもがなであったとのことです。この秘められたテーマに対する多くの共感こそが、この小説を文学史上に残すことになった真の理由です。また裏を返せば、現代人には「何がいいのかさっぱりわからない」という原因でもあります。
   江戸時代は人々の勝手な移動が禁じられていた封建社会でした。当然通婚は狭い地域で行われ、結果的に近親婚が多くなるのはやむをえません。もちろん、その時代でも近親婚がよくないことは経験的に知られていましたが、子孫を残すことの方が優先されたのです。そのため、いとこ婚など珍しいことではありませんでした。しかし明治となり、人の往来が自由になると人間は、できるだけ近親婚を避ける本能的な行動に立戻ります。生物としてみれば、政夫と民子の仲を裂こうとする周囲の行動はあながち”いじわる”とは言えない本能の命ずる行動だったのです。政夫と民子の悲劇は、ちょうど婚姻に関する価値観が変化する時代に居合わせたことではないでしょうか。
   現代であれば、4親等である、いとこ婚は、違法でもなく、実害はほとんどないのですが、過去の時代、人口の少ない上に山間地など地理的に外部との交流がほとんどない村などでは、いとこ婚が繰り返され、目に見える遺伝性疾患が顕在化していたと考えられます。そのような状況は、人の移動が自由化される明治になるまで続きます。東京など大都市の周辺は商工業の勃興で人の移動が活発となり、狭い範囲で婚姻相手を探さなくてもよくなりますから、近親婚の排除が急速に進行します。野菊の墓の舞台である東京近郊の松戸市、市川市は地理的にも開け、産業的にも先進地域であったため、明治維新後は、当然のこととして「いとこ婚はタブー」となっていたのではないでしょうか。しかし、人々を長年問題とされなかった近親婚の撲滅に駆り立てたのは、政府でも村社会でもなく、人間という生命体に潜む遺伝子の怒りにほかなりません。政夫がどこにも怒りをもって行けない辛さはここにありました。民子との別れは神の命ずるところだったのです。
   小説の中では仲を裂く理由として、民子が政夫より年上であることを口実にしていますが、
『年上の女房は金(かね)の草鞋を履いてでも探せ』
のことわざのように、姉さん女房は昔から何のタブーでもありません。
  先進地域ではこのように、早期に近親婚が避けられていくのですが、地域によってはそれが浸透、貫徹するには相当の時間がかかったようです。山間地、東北地方、島など交通不便な地域では昭和に至るまで近親婚が行われ、それが人々の葛藤ともなっていました。このような背景を考えると、古い世代が小説『野菊の墓』に寄せた共感が理解できるのではないでしょうか。
  小説の中で政夫は二人の仲を裂いた家族を恨むことなく、運命だとそれを受け入れます。彼は民子の墓を一面の野菊で抱擁することで愛の行為としたのです。
   ところで、そのような社会的制約が一切ない新しい世代は、この世の春で、好きなように恋愛をし結婚して、たくさん健康な子供を産んでくれるはずなのですが、現実にはそうなっていない。一体どうなっているのでしょう。禁断の恋の甘さも味わってみたいというのはちょっと贅沢では?